「おいしい本、いただきます。」は、食にまつわるさまざまなウンチクや名場面がいっぱいの、眺めておいしい、読んでおいしい本を紹介する連載です。19回目に取り上げるのは『それからはスープのことばかり考えて暮らした』です。
スープという食べ物と
それを取り巻く物語が
心に明かりを灯す。
『それからはスープのことばかり考えて暮らした』 吉田篤弘 著 中公文庫 刊
未来へ想いを馳せたときに去来する感情はドキドキワクワク、つまりは不安と期待。対して、過ぎ去った時間ヘのノスタルジーに浸ったときには、えも言われぬ安心感を覚えるものだなあと、吉田篤弘の作品を読むにつけ、思います。
『それからはスープのことばかり考えて暮らした』は、作者が生まれ育った世田谷の赤堤をモデルにした架空の街「月舟町」を舞台に書かれた『つむじ風食堂の夜』に始まる「月舟町・三部作」の2作目に位置づけられる作品。物語は古い日本映画をこよなく愛する主人公のオーリィ君が、桜川(月舟町の隣駅という設定)の教会の隣にあるアパートに引っ越してくるところから始まり、近隣の人々との交流や何気ない日常が、独特の温かなタッチで描かれます。
オーリィ君が住むアパートの大家であるオーヤさん、サンドイッチの店「3(トロワ)」店主の安藤さんと息子のリツ君、「月舟シネマ」で知り合う不思議な女性、あおいさん。いずれの登場人物も個性的ではあるけれど悪人は出てこないし、恐ろしい事件が起こることもありません。であるからこそ、オーリィ君が安藤さんの作るサンドイッチの味に人生を変えられてしまったり、「月舟シネマ」に漂うスープの匂いにやたら食欲をそそられたり、路面電車の線路ぞいにある夜鳴きそばの店「幸来軒」の大将に「一番星さん」と呼ばれたり――日常にある小さな出来事が読み手の心にビビッドに映し出され、描写されている物事のディテールが行間から鮮やかに立ち上ってくるのです。
タイトルから想像できる通り、「スープ」はこの小説の鍵となる食べ物であり、オーリィ君がなぜ古い日本映画を繰り返し見るのか、という物語のちょっとした伏線とも重なり合ってゆきます。オーリィ君が試行錯誤の末に作ったそのスープ、安藤さんが作るサンドイッチと合わせていつか食べてみたい、いや、世田谷線に乗って出かければ食べられるんじゃないだろうか。そんな風に思わせてくれる親しみやすさ、彼らとどこかで会ったことがあるような気がしてしまう一種のノスタルジーが、心にぽっと優しい明かりを灯してくれる一冊です。
文・写真/森田華代